母亡き後の身の処すべきところ

 今後、平均的な余命は79-64=15である。
15年*365=5475DAYで、一日の重みは183ppmで、約1万分の2しかない。もある。
 多分、母の様子を見る限り、PPKは臨んでも無理があるから、居なくなる直前の2年は、ないものと考えるべきだろうか。
で、終末期においては、介護看護医療の方針として、明確に意思表示すべきは次のことである。
 1.平均余命にまずまず到達して居る場合(70を越えていれば)延命治療はお断りする。
   心臓マッサージ、人工心肺、人工呼吸器 などは使用しないこと。
   一旦つければ、外す方が苦しむ。
 2.死因の特定については主治医が望み、且つ今後の医療に資するならば徹底的にやっていただくこと。
   その他の場合、慢性疾患・肺炎・全身的機能低下・老衰など概ね原因が推定されるなら、解剖やCT・MRIは辞退する。
 3.癌などで苦しがるようであれば、徹底的に苦しみを排除する方策を採るように要求し、実現すること。
 
 それまでの13年間の処し方は概ね次の9ヶ条で臨みたい。
 1.職を探す。
 2.旅行を計画的に行う。
 3.絵を描く。
 4.山野を散策し写真を撮る。
 5.本を読む。
 6.日記・ブログを継続する。
 7.旧友を訪ね歓談する。
 8.親友と定期的に歓談する。
 9.憧憬を思い描き追及する。 

profile(a natural death)

  老いということ。
すでに生きて62年経った。男としては、ヒストグラム的に考えると、いつ寿命が尽きてもおかしくない。
だからといって、常に死を意識し、そのときの訪れを待っているかというと、そうでもない。しかし、まったく忘れているかというと、そうではないのだ。
  比較的早くから、知りえた、個人的な情報を秘匿すべきは始末をしてきた。だから、時々はそれを後悔してしまうこともある。あの、始末は早すぎたか、と。しかし、その後悔は、微弱なものである。始末がつけられないで、くたばれば、悔いてもなお慙愧に耐えぬであろう、と思える。そうして、次第に忘れ、老いを得て行くのである。
  健康的には、随分気をつけて、人間ドックにかかり、状態の監視はしている。しかし、自分の脳や、心臓や、
遺伝的感受性には、早死にした肉親や、血族のDNAが受け継がれていて、いつ、死のスイッチが入っても、おかしくはないのである。実父は、心臓病。その弟は、60代で髄膜炎、死因は心不全。その親は、脳溢血と聞く。
母の、母はやはり田んぼで倒れて死んだ。昔は、突然倒れて死んでも、原因を追究はしない。心臓かも知れない。母も、心臓の弁はどの弁も効率が悪く逆流していて、肥大化や、頻脈気味である。
  そういう、遺伝的な要素を知っていて、暮らすのが、老いということなのだと思う。妻には、「俺が倒れたら、CTの所見で不明だったら、髄膜炎を疑え。」といってある。髄膜炎は、骨髄液を採取しないと分からない、はずだった。処置が早ければ、五体不満足を免れる・・・。心臓は、いい。そのままAEDなど探さないで、細動のままにしてくれ。延命治療も不要だ。寿命を人工的な動力で延ばすのは止めてくれ。止めて欲しい。本人の意思が一番大事なのだ、と思う。

profile(alleviate stress.)

 確かに、介護という行為には、休日なく行うという責任が生じる。今までの会社人間のストレスとこの逃げ場の見当たらないストレスは基本構造が違う。たとえれば、緩いロープにつながれている感じなのだ。
 母の生活品質(QOL)をレベルアップし水準を維持することは、被介護者の生活意欲が右下がりであることで、常に水準維持は、加圧し続けるエンジンが必要なのである。これを怠ると、QOLは低下する。従って常に新規に付加する介護行為が必要になる。それがストレスなのだ。だから、HOME-HELPERの研修を受けた。
 母の介護度は「要介護2級」である。介護人は3食、炊事洗濯掃除、外出、経済的管理、健康管理などの仕事以外は、日常的に6時間〜8時間の散発的な暇が与えられる。これを有効に消費しないと、その用途自体がストレスを生む。すなわち人間らしく過ごす必要があるのだ。これは多分専業主婦のような感覚だろう。従って、その暇の過ごし方は、生産性があるかどうかよりも、ストレスが解消できるかどうかに依るのである。
 自分が選んだのは
1.現役中に親交が途絶えていた旧友との復交。
2.憧憬のかなたにあった絵画・音楽・文学・写真・情報などへのかかわり。
3.未知の自分の可能性の探求。
 であった。
 旧友との復交は3人の旧友と連絡が取れ、一人の方とは定期的に会合し刺激し合い、他のかたがたはいまだ現役につきリタイア待ちだ。
 絵画はNHKの文化センターの、教室にもぐりこんだ。
 音楽は名古屋フィル定期演奏会会員に登録し、安い席をリザーブできた。
 文学は旧友の援助により、読書をし、短い文章を憧憬を題材に書いたりしている。
 写真はこれから本格的に取材を始め、自分のテーマを持とうと意欲している。
 情報はブログやHPで自己顕示欲を満たすこととしたい。
以上の事柄は、ある条件を満たしたときに実現が可能となる。すなわち介護品質の維持向上・経済的永続性の保障・自己人間性を豊かに出来る方向性が見出せること、などである。
 
 

profile of my mother

母は、すべての生活行動について面倒だと思うようになった。
そもそも、義父が死んで、一人暮らしの、自由な環境を得てから、それが進行し始めたと思う。
脳の退化が、始まったのである。
10年間くらいは、楽しんで一人生活を送った。よく早朝歩き、あちらこちらで顔見知りを作っていたようで、もらい物したり、塵拾いをしたり、草取りをしたりしていた。
母が一人になってからは、毎週日曜は必ず、特別な時を除いて、昼飯を食べに名古屋へ来て散歩したりした。
従って、日曜は人付き合いも悪く、恵那に居なかった。
9時か10時に砂田橋へ来て、散歩して、昼を母に作らせて、午後2時までに名古屋を後にした。
住処が汚れるようになった。掃除が行き届かなくなった。
昼の支度が手抜きや焦げが目立つようになった。
冷蔵庫に、古いものが溜まり始めた。
そのころ、大幸住宅は新規建て直しになった。
新しいところに移って、母の生活は一時的に持ちなおすかに思えたが、急な進行が始まるきっかけになった。
そうして老いや、認知症が進行して行くのである。
昼に、腐敗したものが出されるようになった。
戸棚に何時ものかわからないものが腐敗していた。
食卓の上は、同じようなおかずがパックに入って、積み重なり、どれが新しいのか古いのかわからなかった。
ラップが剥がれてコバエが閉じこめられていた。らっきょの鉢にコバエが漬かっていた。
てんぷらにコバエのウジが這っていた。
台所の天井にはコバエの卵が張り付いていた。
らっきょを3Lビンごと 買ってきた。それを忘れてまた買ってきて2瓶になった。
店屋の女主人に、おかしいと思ったら売らないように頼んだ。
郵便局から、定期を解約してかばんに札束をしまっていた。元来キャッシュカードは作らないので、小出し主義だったが、面倒で大きな金額を引き出して、万札で買い物をし始めた。小銭の決済が面倒になっていた。
小銭があふれていた。東海BKがUFJになりリストラで古出来町が閉鎖され、郵便局が遠くなり、母の金銭管理環境は悪化して、そうなったようだった。
引き出した大金で、10ヶ月程度はそれで生活が出来た。医者の薬はたまる一方だった。
母のQOLは最悪の状態に達していた。
自宅へ引き取ることを検討した。しかし母には健康な足があり、昼間誰も居ない自宅では却って問題が大きくなると判断した。
そのとき、定年を迎えたが、仕事は辞めてもいい状態に熟していなかった。やむなく二重の生活が始まった。
日曜に来て名古屋に泊まり、月曜の朝名古屋から恵那へ出勤した。
水曜の仕事は定時で終わり、名古屋へ帰り泊まり、翌朝恵那へ出勤した。
こうして、不完全ながら1年は、母のQOLのレベルを引き上げた。
最後の、2006年6月は一月の間、名古屋から通った。
従って、会社を辞めるときは、うれしくて仕方なかったのである。

profile( the past )

祖父江(現在の稲沢市)は母の実家で、畳屋兼業農家でした。そこでは祖母に育てられ、近くの尼寺の幼稚園へ通い、遠足は木曽川の砂山でした。
大阪は阿倍野筋5丁目の掘っ立て小屋で、親子4人、事業家のおじの土地を借りていたようですが、数年間いて、その後近くを転々としました。共立通1貸家、丸山通1木造アパート、西成松田町ダンボール会社事務所二階、阪南1間借り、王子町1木造アパート。小学校は丸山小学校、恩師は道野先生。このころ義父の女性問題で、義父・母は離婚を実行、その後復縁しています。離婚を届けたものの、同居はしていたと思われます。しかし、子の移動や転居には戸籍が必要ですので、やむなく復縁し、戸籍を戻したと思われます。
中学校は2年まで松虫中学校で、ユーカリの大木が記憶にあります。
友人は、タバコ屋の中西さん、ツッパリの高野さん、親友の森口さん、憧憬は、河合さん、八木さん・・・。
突如、名古屋へ転居、鍋屋上野町字半ノ木大幸住宅でした。義父は旭軽建 勤務、経理担当、運転資金工面に苦労。その後理容組合事務。自分は桜ヶ丘中学3年編入、友人はMT氏、憧憬は、吉原さん。このころ母が、長女を死産。
高校は愛知県立愛知工業高校機械科、担任は梅本・土井・内藤各先生、親友は、YK、KM各氏でした。
最終学年秋、7102を志望して受験、不採用、理由X-Rayに影。即、三者併用治療開始。3ヵ月後には薬効あり影が固まりました。
3者併用治療は記憶では半年程度で打ち切った記憶です。
肺浸潤は右上肺鎖骨付近の影でした。感染は両親とも保菌者でした。両親は定期的な健康診断を怠りわが子に感染させた責任をどう耐えたか知りません。親子感染により志望就職先を落としたことは己が人生にとってどうであったかは、神の領域です。人間万事塞翁が馬であると思うのです。
3月TN工業入社、名古屋工場勤務。上司はA氏、K氏、O氏でした。
昭和41年12月恵那へ転勤。久須見小学校旧校長住宅に下宿。青春謳歌。憧憬はマドンナ。独身寮完成後長島町中野へ入寮。昭和47年結婚した。
当座は丸池市営住宅に入居。昭和48年代に工場増設に関わる。長男誕生。昭和50年自宅を大井町青木に設ける。次男誕生。
最大のピンチ9.28災害に遭遇。直後、義父髄膜炎にて倒れる。強度の言語障害・知能障害。
工場は壊滅的な打撃を被る。復旧事業の恩人はS氏、J氏、K氏ら。リストラ・工場統合・人員整理。平成6年義父死亡。
平成7年親会社リストラで、産業機器事業全面移管。同時期出向者部下S氏自殺により、産業機器設計製造計画担当をリカバリー。
このとき長男による影のサポートが極めて大きかった。夜中に長男を極秘に呼び出しPC操作jwCADをマスター。製品設計に資した。
次年度KS氏入社。直属部下として設計製造業務を任せられる優秀な人材だったことは非常に幸せだった。
その佐藤一氏の貢献により、管理業務に専念できた。以降QMS構築・ISO9001認証、K氏の後任営業を引き受けクレーム処理、新規顧客開拓を担当。
花道を準備され、優秀な後任の方々に恵まれ後顧憂いなくリタイアできた。
憧憬は秘匿のままである。

an outline

2005年永年勤続後、定年を迎えました。
定年後、1年間はご好意で、使っていただきましたが、2006年6月退職しました。
その直後より、名古屋・砂田橋で、一人住まいの母(1923年生)を介護しています。
2005年秋ころより、母は直近の記憶力が低下、医者へ行く日のことも、かかってきた電話も、記憶できなくなりました。
来ないのを心配した医者から電話があり、「満足に薬を飲んでいないのではないか」と。
「電話しても『はい、すぐ行きます』と返事はしてもらえるが、待てど来ない」と。
毎月一日の、父の月命日にはお寺さんが、いつもお経に来てくれていました。
その日を忘れて、留守にしたこともあり、お寺さんも心配してくださるようになりました。
退職を機に、前から決めていた【単身赴任介護】することとしました。
このため、恵那市の、ホームヘルパー2級研修会を2006年に受講し、知識と資格を戴きました。
週末日曜には、恵那へ帰ります。ただし、介護には休みがありません。
帰省はほんの5時間程度です。
母がくたばるまでの何年かは、年少のころ己が受けた恩を少しずつ返済しています。
そこには、多分、ひとりよがりで、偏執にまみれた自己しかいないのではないかと。
可能なら、外からみた姿を感じてみたいと思います。