profile(a natural death)

  老いということ。
すでに生きて62年経った。男としては、ヒストグラム的に考えると、いつ寿命が尽きてもおかしくない。
だからといって、常に死を意識し、そのときの訪れを待っているかというと、そうでもない。しかし、まったく忘れているかというと、そうではないのだ。
  比較的早くから、知りえた、個人的な情報を秘匿すべきは始末をしてきた。だから、時々はそれを後悔してしまうこともある。あの、始末は早すぎたか、と。しかし、その後悔は、微弱なものである。始末がつけられないで、くたばれば、悔いてもなお慙愧に耐えぬであろう、と思える。そうして、次第に忘れ、老いを得て行くのである。
  健康的には、随分気をつけて、人間ドックにかかり、状態の監視はしている。しかし、自分の脳や、心臓や、
遺伝的感受性には、早死にした肉親や、血族のDNAが受け継がれていて、いつ、死のスイッチが入っても、おかしくはないのである。実父は、心臓病。その弟は、60代で髄膜炎、死因は心不全。その親は、脳溢血と聞く。
母の、母はやはり田んぼで倒れて死んだ。昔は、突然倒れて死んでも、原因を追究はしない。心臓かも知れない。母も、心臓の弁はどの弁も効率が悪く逆流していて、肥大化や、頻脈気味である。
  そういう、遺伝的な要素を知っていて、暮らすのが、老いということなのだと思う。妻には、「俺が倒れたら、CTの所見で不明だったら、髄膜炎を疑え。」といってある。髄膜炎は、骨髄液を採取しないと分からない、はずだった。処置が早ければ、五体不満足を免れる・・・。心臓は、いい。そのままAEDなど探さないで、細動のままにしてくれ。延命治療も不要だ。寿命を人工的な動力で延ばすのは止めてくれ。止めて欲しい。本人の意思が一番大事なのだ、と思う。