profile of my mother

母は、すべての生活行動について面倒だと思うようになった。
そもそも、義父が死んで、一人暮らしの、自由な環境を得てから、それが進行し始めたと思う。
脳の退化が、始まったのである。
10年間くらいは、楽しんで一人生活を送った。よく早朝歩き、あちらこちらで顔見知りを作っていたようで、もらい物したり、塵拾いをしたり、草取りをしたりしていた。
母が一人になってからは、毎週日曜は必ず、特別な時を除いて、昼飯を食べに名古屋へ来て散歩したりした。
従って、日曜は人付き合いも悪く、恵那に居なかった。
9時か10時に砂田橋へ来て、散歩して、昼を母に作らせて、午後2時までに名古屋を後にした。
住処が汚れるようになった。掃除が行き届かなくなった。
昼の支度が手抜きや焦げが目立つようになった。
冷蔵庫に、古いものが溜まり始めた。
そのころ、大幸住宅は新規建て直しになった。
新しいところに移って、母の生活は一時的に持ちなおすかに思えたが、急な進行が始まるきっかけになった。
そうして老いや、認知症が進行して行くのである。
昼に、腐敗したものが出されるようになった。
戸棚に何時ものかわからないものが腐敗していた。
食卓の上は、同じようなおかずがパックに入って、積み重なり、どれが新しいのか古いのかわからなかった。
ラップが剥がれてコバエが閉じこめられていた。らっきょの鉢にコバエが漬かっていた。
てんぷらにコバエのウジが這っていた。
台所の天井にはコバエの卵が張り付いていた。
らっきょを3Lビンごと 買ってきた。それを忘れてまた買ってきて2瓶になった。
店屋の女主人に、おかしいと思ったら売らないように頼んだ。
郵便局から、定期を解約してかばんに札束をしまっていた。元来キャッシュカードは作らないので、小出し主義だったが、面倒で大きな金額を引き出して、万札で買い物をし始めた。小銭の決済が面倒になっていた。
小銭があふれていた。東海BKがUFJになりリストラで古出来町が閉鎖され、郵便局が遠くなり、母の金銭管理環境は悪化して、そうなったようだった。
引き出した大金で、10ヶ月程度はそれで生活が出来た。医者の薬はたまる一方だった。
母のQOLは最悪の状態に達していた。
自宅へ引き取ることを検討した。しかし母には健康な足があり、昼間誰も居ない自宅では却って問題が大きくなると判断した。
そのとき、定年を迎えたが、仕事は辞めてもいい状態に熟していなかった。やむなく二重の生活が始まった。
日曜に来て名古屋に泊まり、月曜の朝名古屋から恵那へ出勤した。
水曜の仕事は定時で終わり、名古屋へ帰り泊まり、翌朝恵那へ出勤した。
こうして、不完全ながら1年は、母のQOLのレベルを引き上げた。
最後の、2006年6月は一月の間、名古屋から通った。
従って、会社を辞めるときは、うれしくて仕方なかったのである。