焦燥感?愛国心?

 わが国の、多分ほとんどの方々がそうであるように、
尖閣問題に対する対岸国の態度によって引き起こされる感情は、
 1999年の篠原信一が「内股空かし」で勝った試合を、誤審された
時に抱いた感情に極めて似ているのだ。
 この焦燥感の、原因の一つは過去に存在したわが国による対岸国への侵略行為、
残虐行為、戦争犯罪行為などによる負い目によるものである。
 更に、一つは、平和憲法を護持することの誇りと自制によるものだと思う。
われわれの、血の中に過去の覇権主義の血が受け継がれていて、ことが起れば
 いつ連鎖的に暴発するかも知れない恐怖心があるのかも知れない。
そう、何かで抑制しておかないと、単純に、一気に、走り出す単一民族の血が
あるのである。
 弱腰外交だ、などと結果を揶揄することは簡単だ。
では強く出て対抗して行く覚悟をさせるというのか。己が焦燥感に呷られ、
いかにも愛国の志あるが如く、自国の正義を推進し、主張すれば、
焦燥は薄れるだろう。しかし対岸国の、かたくななイデオロギは一層かたくな
になり、あらゆる機会、あらゆる手段を講じて強硬な対抗手段をとるのも
容易に想定できる。結果、またより以上の焦燥感を抱くことになり、
 解決の道は細くなり、遠くなり、やがてなくなる。
尖閣はわが国の領土と、毅然として主張して、現にそれを対岸国が尊重するなら、
 弱腰でいいのではないか。やわな、と侮られ再び同じ越境行為が起れば、
同じやり方で毅然と静止させる沿岸警備を続ければいい。その結果が、
再び 弱腰であってもいいのである。そうしたことで引き起る焦燥感が、
鬱血して、改憲に向かう愚は、かつての軍国の再現につながる。
 むしろ、無抵抗主義であろうとすべきである。勇気とはそういうこと
ではないか。
 篠原がそうであったように、大和魂は黙って受け入れたが、誤審で勝った相手は
敗れたと自覚しながらもその勝ちに憂うことなく受け入れた情けない相手なのだ。